段ボールの底から出てきた画集を、麻衣はしばらく床に置いたまま見ていた。
シャガール。
背表紙の文字を読んだ瞬間、胃の少し上のあたりが、きゅっと縮んだ。 痛みではない。もっと古い感覚。何かを思い出す直前の、あの感じ。
拾い上げて、表紙を開く。
青い夜の中を、男と女が抱き合って浮いている。 重力を忘れた二人。 地面がどこにあるかを、もう気にしていない二人。 麻衣は絵をじっと見て、それからそっと閉じた。
パリのオペラ座で、颯太に手を引かれて、暗い客席の中を歩いた夜のことを思い出す。
正確には「こっそり入った」と言うべきだった。 チケットはあった。 でも二人が向かったのは客席ではなく、係員の目を盗んで開けた扉の向こう——天井に近い、立ち入り禁止の回廊だった。
シャガールが描いた天井画を、真下ではなく、横から見たい。颯太がそう言った。 麻衣は止めなかった。 そういう人だ、颯太は。理由が荒唐無稽なほど、なぜかついていきたくなる。
天井画は、思っていたより遠かった。でも確かに見た。 青と金と、浮かぶ人たち。
警備員の懐中電灯が回廊の入り口を照らしたとき、二人は声を殺して走った。 颯太が先で、麻衣が後ろで、手だけがつながっていた。 階段を降りながら麻衣は笑いをこらえていて、でもこらえきれなくて、出口の扉を抜けた瞬間に大声で笑った。
颯太も笑っていた。
セーヌ川沿いで息を整えながら、颯太が言った。 「見られたな」 「見た」と麻衣は言った。「ちゃんと見た」
颯太と別れてから一年と少しが経つ。
別れを切り出したのは麻衣だった。 理由を説明するのは難しい。 颯太が悪かったわけでも、麻衣が傷ついたわけでもない。 ただある朝、わかってしまった。 二人の魂の向かう方向が、違う、と。
良いとか悪いとか、そういう話ではなかった。
それぞれが、それぞれの夢を叶えればいい。ただそれだけのことだった。
颯太には今、新しい彼女がいる。麻衣はそれを知っている。それでいい、と思っている——思っているというより、心から本当にそう感じる。理由はわからない。 颯太は月に一度、この部屋に泊まりに来る。夜の交わりはない。 翌朝、二人で珈琲を飲む。 それが今の二人の形で、麻衣にはそれが、恋愛よりも正直に感じる。
画集をもう一度開く。
今度はマティスのページを探す。 指が止まったのは、赤い部屋の絵だった。 テーブルクロスも壁も、すべてが赤い部屋の中で、女が一人、花を活けている。
この赤を、麻衣は知っている。
石造りの建物の、二階。 赤いカーテン。帳簿。 夜ごと、ノックの音。
あの部屋にいた女たちの顔が、また、ない。
麻衣は画集を閉じて、窓の外を見た。 新しい街の、知らない屋根が並んでいる。 どの家にも、顔がある。名前がある。 麻衣はまだ、何も知らない。
それでいい、と思う。
今度は、ちゃんと見る。