パリ、1893年春 / 東京、現在
── パリ、1893年春 ──
アンリが連れてきた男は、背が高く、目が静かだった。
「友人だ」とアンリは言った。「アンリ・マティス。画家だ」
同じアンリか、とマドレーヌは思ったが、口には出さなかった。 二人のアンリ。でも似ていない。 ロートレックの目は夜を見る目だ。影と疲れと、それでも消えない好奇心。 マティスの目は——朝を見る目だった。まだここにない光を、すでに見ている目。
マティスはサロンに入って、しばらく立ったまま部屋を見渡した。 値踏みではない。ロートレックとも違う。 もっと静かな、受け取るような見方だった。
「赤いカーテンだ」と彼は言った。独り言のように。
「ええ」とマドレーヌは答えた。
「この赤は、生きている」
マドレーヌはその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。 カーテンはただのカーテンだ。 十年前からそこにある。 でもマティスの目を通すと、それが別の何かになった。 赤が、呼吸をしているように見えた。
その夜マティスは何も描かなかった。 ただ座って、見ていた。 帰り際に一言だけ言った。
「またくる」
そして来た。何度も来た。 でもマティスが描いたのは、娼館の女たちではなかった。 部屋の色だった。 カーテンの赤、テーブルクロスの模様、窓から差し込む光の角度。 女たちはその絵の中に、気配として溶けていた。名前のない温度として。
ロートレックは女たちの輪郭を描いた。 マティスは女たちがいた空気を描いた。
どちらが正しいかではない。 マドレーヌにはただ、二人とも自分より正直だと思えた。
── 東京、現在 ──
颯太が来たのは、土曜日の夕方だった。
呼び鈴が鳴って、麻衣は画集から顔を上げた。 インターフォンで颯太の声を確認してから、鍵を開けた。 引越してから初めての訪問だった。 颯太はこの部屋をまだ知らない。
「せまいな」と颯太は言いながら入ってきた。 褒め言葉ではないが、悪口でもなかった。 ただの感想として言える、そういう間柄だった。
「一人だから十分」と麻衣は答えた。
床に広げたままの画集を、颯太は覗き込んだ。 ジョージア・オキーフ。 砂漠の骨。空の青。朝顔に似た花の断面。
「これ、好きだったっけ」
「好きかどうかわからない」と麻衣は言った。 「でも、気になる」
颯太は冷蔵庫を開けて、麻衣が買っておいたビールを一本取り出した。 それから麻衣の隣に座って、画集をめくった。 牛の頭蓋骨。白骨化した骨盤。砂漠の空に浮かぶ、何もない青。
「骨ばっかり描いてる人だな」
「骨じゃなくて」と麻衣は言った。 「骨の向こうにある空を描いてるんだと思う」
颯太が麻衣を見た。
「なんで骨の向こうに空があるんだ」
「頭蓋骨に穴が開いてるでしょ。目の穴。その向こうに、砂漠の空が見える。オキーフはそれを描いてた。抜け落ちた後に残る、青」
颯太はしばらく黙って、画集を見ていた。
「麻衣みたいだな」と彼は言った。
「何が」
「抜け落ちた後のこと、ちゃんと見てるところ」
麻衣は答えなかった。でも否定もしなかった。 窓の外に、夕暮れが広がっていた。 東京の夕暮れは赤くない。 オレンジとグレーが混ざった、決断できない色をしている。
でも麻衣には、その色が——マティスが見た赤いカーテンの部屋の、夕方の光に似ているような気がした。 なぜそう思うのか、説明できなかった。
ただ、知っていた。皮膚で知っていた。
夜、颯太が眠った後、麻衣は一人で画集を開いた。
オキーフがニューメキシコの砂漠を選んだのは、誰かに選ばれるためではなかった。 夫がいた。名声があった。ニューヨークがあった。 しかし、砂漠を選んだ。 自分の魂が向かう方向へ、ただ行った。
麻衣は自分の胸を、そっと触った。 何もない場所。 でも今夜は、その空白が——オキーフの骨の向こうの空みたいに、青く広がっている気がした。
抜け落ちた後に残る、青。
それはまだ、何も決まっていない色だ。