古代エジプト、時の名前を持たない朝 / 東京、現在
夜明け前、ネフェルウは塔に登った。
石の段を数えながら登る。百と七つ。毎朝同じ数。 数を数えることで、頭の中を空にする。 空になった頭に、歌が入ってくる。
塔の頂上に立つと、世界が見えた。
ナイルが光っていた。 その両岸に、緑が広がっていた。 パピルスの茂み、ロータスの群落、麦畑、椰子の列。緑、緑、緑。 大地は生きていた。
川は毎年、溢れた。 人々はそれを恐れなかった。 氾濫が来るたびに、ナイルは黒い土を運んできた。 水が引いた後の大地に、その黒い土が残った。 そこから緑が生まれた。花が咲いた。麦が育った。
失うことと、受け取ることは、ネフェルウにとって同じ言葉だった。
川が溢れなければ、大地は死ぬ。 溢れるから、生きる。 それがナイルの論理であり、この大地の呼吸だった。 ネフェルウはそれを、子供の頃から体で知っていた。 氾濫を嘆く者に、師はこう言った——川は奪っているのではない。運んでいるのだ。
その緑の中に、人々の小さな火が点在していた。 夜明け前に起き出した農夫たちの、調理の火。 遠くから見ると、大地が星を映しているように見えた。
ネフェルウはその景色を、毎朝少しの間だけ、ただ見た。
東の空が白み始めた頃、ネフェルウは歌い始めた。
言葉のある歌ではない。音だけの歌。 宇宙が最初に発した音に近い振動を、声で作る。 その振動が空気を伝い、塔の下に集まった人々の体に届く。 届いた振動は、それぞれの体の中で眠っていた何かを揺り起こす。
人々は泣いた。笑った。目を閉じた。空を見上げた。
何が起きているのか、誰も説明できなかった。 ただ、何かが確かにそこにあった。
ネフェルウより年長の神官が三人、ある朝塔の下で待っていた。
「お前の歌の源を教えろ」と長老が言った。
ネフェルウは答えなかった。
答えなかったのは、嘘をつきたくなかったからだ。 歌の源を言葉にすることは、それを小さくすることだと知っていたから。 言葉にした瞬間、それはもう本当のものではなくなる。
「知っていることを、なぜ話さない」
「話せないのです」とネフェルウは言った。 「話すことができない。言葉が、足りない」
「言い訳だ」と長老は言った。 「お前は権力を独り占めにしたいのだ」
違う、とネフェルウは思った。 でも、それを証明する言葉が見つからなかった。
食事が来なくなったのは、その三日後からだった。
水も来なくなったのは、七日後だった。
ネフェルウは部屋に閉じ込められたまま、ナイルの方角を向いて座っていた。 川の音が、壁を越えて聞こえた。 あるいは聞こえた気がした。 体が弱くなるほど、不思議なことに、聞こえるものが増えた。
緑の匂いがした。土の匂い。川の匂い。
氾濫が来れば、この扉も流されるだろうか——とネフェルウは思った。 水が来て、黒い土を置いていくだろうか。 そしてこの石の部屋にも、いつか緑が生えるだろうか。
十四日目の朝、ネフェルウは横になった。
天井を見た。石の天井。 でもその向こうに空があることを知っていた。 空の向こうに星があることを知っていた。星の間に歌があることを知っていた。
知っていた。でも誰にも、話さなかった。
それが正しかったのか、間違いだったのか——死ぬ直前まで、ネフェルウにはわからなかった。 ただ、川は奪っているのではない、運んでいるのだ、という師の言葉だけが、最後まで耳の中に残っていた。
麻衣は目が覚めた。朝の四時だった。
土の匂いがした。川の匂い。緑の匂い。夢の重さではなかった。
起き上がって、スマートフォンを手に取った。 わけもわからず、検索した。
古代エジプト ナイル 氾濫 土壌。
文字が流れてきた。 ナイルは毎年定期的に氾濫し、上流から黒い沖積土を運んだ。 エジプト人はその土を「ケメト」と呼んだ——黒い大地、という意味だ。 氾濫なしには農業はなく、文明はなかった。 失うことが、豊かさの条件だった。
もう一度開いた。また検索した。
砂漠化 原因 歴史。
文字が流れてきた。 気候変動。過放牧。森林伐採。そして——戦争。
戦争が大地を殺す、と書いてあった。 メソポタミアの話だった。 かつて「肥沃な三日月地帯」と呼ばれた土地——チグリス川とユーフラテス川の間に広がっていた、世界最古の農耕文明の揺り籠。 そこは何千年もの間、緑だった。 灌漑技術で砂漠に水を引き、麦を育て、都市を作った。 でも繰り返される征服と侵略の中で、灌漑路が壊され、塩が積もり、緑が退いた。 今のイラクの砂漠の下に、かつての畑がある。
麻衣はスマートフォンを置いて、暗い天井を見た。
戦争は大地を殺す。 大地が死ぬと、緑が消える。 緑が消えると、人が去る。 人が去ると、また誰かが奪いに来る。 奪うために、また戦う。
では、人はなぜ戦うのか。
麻衣はアナスタシアの言葉を思い出した。読んだのはずっと前だ。でも覚えていた。 男が権力を求めるのは、最終的には女に選ばれたいからだ。 女が本当に愛する男だけを選ぶなら、権力のための戦争に意味はなくなる。
馬鹿げている、と最初は思った。 単純すぎる、とも思った。
でも今夜は、少し違って聞こえた。
権力を持つから愛される、のではない。愛されるから、権力に意味が生まれる——のだとしたら。 女が本当に愛する男だけを選ぶなら、権力は愛のための手段にすぎなくなる。 愛されない権力に、誰も命を賭けなくなる。
戦争は、愛されたい男たちの、行き場を失った叫びかもしれない。
ネフェルウが歌っていた緑の大地は、戦争と支配の歴史の中で砂になった。 マドレーヌが帳簿をつけていた娼館は、女が選ばれる場所であり、女が本当に愛する男を選ぶことのできない場所だった。 そしてオキーフだけが——夫も名声もニューヨークも捨てて——砂漠を自分で選んだ。
砂漠を選んだ女の大地には、戦争が来なかった。
それが答えかどうかは、わからない。 でも麻衣には、何かの輪郭が見えかけていた。 まだ言葉にはできない。言葉にした瞬間、小さくなる気がした。
——ネフェルウも、そう思ったのかもしれない。
麻衣は目を閉じた。窓の外で、東の空が白くなり始めていた。
話さなかった、ネフェルウは死んだ。 見なかった、マドレーヌは帳簿に戻った。 緑だった大地は、戦争と時間の中で砂になった。 でも川は、まだ流れている。
では、麻衣は。
麻衣は、まだ生きている。 水が引いた後の、黒い土の上に。
何かが、育ち始めているかもしれない。