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第六章

年齢のわからない男

東京、現在

行政書士の試験まで、あと四十日だった。

麻衣は近所の図書館で勉強するようになっていた。 新しいアパートには勉強机がない。段ボールがまだ片付いていない。 それより何より、あの部屋にいると、画集を開いてしまう。

図書館の自習室は静かだった。 蛍光灯の白い光。 市役所と同じ種類の光。 でも市役所と違うのは、ここには時間がある、ということだ。急かされない。 番号票を握らなくていい。

麻衣は行政法のテキストを開いて、三十分ほど読んだ。 条文が頭に入ってくる日と、入ってこない日がある。 今日は入ってこない日だった。 文字を目で追いながら、頭の中では砂漠のことを考えていた。


男に気づいたのは、二時間ほど経った頃だった。

向かいの席に、いつの間にか座っていた。 いつ来たのか、わからなかった。 自習室は静かで、人の出入りには気づくはずだった。 でも気づかなかった。

白髪で、背が高く——座っていても、そうわかった。 年齢のわからない顔をしていた。 三十にも見えるし、六十にも見える。

麻衣は視線を感じて顔を上げた。男と目が合った。

男は微笑んだ。 知っている人間に向ける微笑みだった。 でも麻衣には見覚えがなかった。

会釈だけして、テキストに戻った。


図書館を出たのは夕方だった。

秋の日暮れは早い。商店街のアーケードに灯りがついていた。 麻衣は鞄を肩にかけて歩いた。 夕飯のことを考えていた。 卵がある。玉ねぎがある。それだけでいい。

「田辺さん」

声をかけられた。 振り返ると、図書館の男が立っていた。

麻衣は少し警戒した。 でも男の立ち方に、急かす気配がなかった。 ただそこにいる、という立ち方だった。

「人違いでは」と麻衣は言った。

「いいえ」と男は言った。 日本語だが、どこの訛りかわからなかった。 「田辺麻衣さん。引越してきたばかりですね」

「どなたですか」

男は名刺を出した。 横文字で、読みにくかった。

サン・ジェルマン。

その名前を目で追った瞬間、麻衣の背中で何かが動いた。 知っている。この名前を、知っている。でもどこで——

「驚かせてすみません」と男は言った。 「ただ、確認したかっただけです」

「何を」

「あなたがまだ、ここにいるかどうか」

麻衣は男を見た。冗談を言っている顔ではなかった。 かといって、狂っている顔でもなかった。 ただ、静かだった。 途方もなく長い時間を知っている人間の、静けさだった。

「いますよ」と麻衣は言った。 自分でも驚くほど、自然に言えた。 「ここにいます」

男は小さく頷いた。

「知っています」と彼は言った。 「ずっと、そうでした」


男はそれだけ言って、去った。 追いかけなかった。 追いかける必要性を感じなかった。

麻衣は商店街の灯りの下に立ったまま、名刺を見た。サン・ジェルマン、という名前の下に、住所も電話番号もなかった。 ただ一行だけ、小さな文字で何か書いてあった。

フランス語だった。 麻衣にはほとんど読めなかった。 でも一つだけ、わかる単語があった。

Choisir.

選ぶ、という意味だ。

麻衣は名刺をしまった。 歩き始めた。 卵と玉ねぎのことを、また考えた。 でも頭の奥で、パリの冬の夜の匂いがした。 石畳。ガス灯。赤いカーテン。帳簿。

そしてあの声——

「マドレーヌ。お前はいつまでこの帳簿を見ている」

麻衣は立ち止まった。

夕暮れの商店街で、しばらくそのまま立っていた。

あの男を、知っていた。

ずっと前から、知っていた。


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