東京、現在
行政書士の試験まで、あと四十日だった。
麻衣は近所の図書館で勉強するようになっていた。 新しいアパートには勉強机がない。段ボールがまだ片付いていない。 それより何より、あの部屋にいると、画集を開いてしまう。
図書館の自習室は静かだった。 蛍光灯の白い光。 市役所と同じ種類の光。 でも市役所と違うのは、ここには時間がある、ということだ。急かされない。 番号票を握らなくていい。
麻衣は行政法のテキストを開いて、三十分ほど読んだ。 条文が頭に入ってくる日と、入ってこない日がある。 今日は入ってこない日だった。 文字を目で追いながら、頭の中では砂漠のことを考えていた。
男に気づいたのは、二時間ほど経った頃だった。
向かいの席に、いつの間にか座っていた。 いつ来たのか、わからなかった。 自習室は静かで、人の出入りには気づくはずだった。 でも気づかなかった。
白髪で、背が高く——座っていても、そうわかった。 年齢のわからない顔をしていた。 三十にも見えるし、六十にも見える。
麻衣は視線を感じて顔を上げた。男と目が合った。
男は微笑んだ。 知っている人間に向ける微笑みだった。 でも麻衣には見覚えがなかった。
会釈だけして、テキストに戻った。
図書館を出たのは夕方だった。
秋の日暮れは早い。商店街のアーケードに灯りがついていた。 麻衣は鞄を肩にかけて歩いた。 夕飯のことを考えていた。 卵がある。玉ねぎがある。それだけでいい。
「田辺さん」
声をかけられた。 振り返ると、図書館の男が立っていた。
麻衣は少し警戒した。 でも男の立ち方に、急かす気配がなかった。 ただそこにいる、という立ち方だった。
「人違いでは」と麻衣は言った。
「いいえ」と男は言った。 日本語だが、どこの訛りかわからなかった。 「田辺麻衣さん。引越してきたばかりですね」
「どなたですか」
男は名刺を出した。 横文字で、読みにくかった。
サン・ジェルマン。
その名前を目で追った瞬間、麻衣の背中で何かが動いた。 知っている。この名前を、知っている。でもどこで——
「驚かせてすみません」と男は言った。 「ただ、確認したかっただけです」
「何を」
「あなたがまだ、ここにいるかどうか」
麻衣は男を見た。冗談を言っている顔ではなかった。 かといって、狂っている顔でもなかった。 ただ、静かだった。 途方もなく長い時間を知っている人間の、静けさだった。
「いますよ」と麻衣は言った。 自分でも驚くほど、自然に言えた。 「ここにいます」
男は小さく頷いた。
「知っています」と彼は言った。 「ずっと、そうでした」
男はそれだけ言って、去った。 追いかけなかった。 追いかける必要性を感じなかった。
麻衣は商店街の灯りの下に立ったまま、名刺を見た。サン・ジェルマン、という名前の下に、住所も電話番号もなかった。 ただ一行だけ、小さな文字で何か書いてあった。
フランス語だった。 麻衣にはほとんど読めなかった。 でも一つだけ、わかる単語があった。
Choisir.
選ぶ、という意味だ。
麻衣は名刺をしまった。 歩き始めた。 卵と玉ねぎのことを、また考えた。 でも頭の奥で、パリの冬の夜の匂いがした。 石畳。ガス灯。赤いカーテン。帳簿。
そしてあの声——
「マドレーヌ。お前はいつまでこの帳簿を見ている」
麻衣は立ち止まった。
夕暮れの商店街で、しばらくそのまま立っていた。
あの男を、知っていた。
ずっと前から、知っていた。