東京、現在
颯太が来たのは、十一月の土曜日だった。
前回より荷物が少なかった。 着替えと、文庫本と、麻衣が好きなチョコレートを一枚。 颯太はいつもそういうことを覚えている。 覚えていて、でも大げさにしない。 それが颯太という人間だった。
夕飯は麻衣が作った。 たいしたものではない。 豚汁と、ご飯と、卵焼き。 颯太は文句を言わない。 何を出しても「うまい」と言う。 嘘ではないと、麻衣は知っている。
食べながら、他愛ない話をした。 颯太の仕事のこと。麻衣の試験勉強のこと。 図書館が静かでいいこと。近所に良いパン屋があること。
話しながら、麻衣はずっと迷っていた。
食器を洗い終えて、二人で床に座った。 颯太がビールを開けた。 麻衣は白湯を飲んだ。 窓の外で風が鳴っていた。
「ねえ」と麻衣は言った。
「うん」
「変な話、していい」
颯太はビールを置いた。 麻衣の方を向いた。 「変な話ほど聞きたい」
麻衣は少し間を置いた。 どこから話せばいいか、わからなかった。 エジプトから話すべきか。パリから話すべきか。それとも図書館の男から話すべきか。
図書館の男から、にした。 一番最近のことだから。
「先月、図書館で変な人に会った」
話し始めると、止まらなかった。 サン・ジェルマン伯爵のこと。名刺のこと。Choisirという言葉のこと。 その名前を見た瞬間に背中で何かが動いたこと。 そしてパリの夢のこと。赤いカーテンの部屋のこと。帳簿のこと。 ロートレックとマティスのこと。 エジプトの塔のこと。百と七つの石段のこと。緑の大地と、ナイルの氾濫のこと。
颯太は一度も遮らなかった。
麻衣が話し終えると、しばらく沈黙があった。 風の音だけがあった。
「信じる?」と麻衣は聞いた。
颯太は少し考えた。 「信じるとか信じないとか、そういう話じゃない気がする」
「どういう話?」
「麻衣がそれを知っている、っていう話」
麻衣は颯太を見た。
「ネフェルウって名前の神官の話、したじゃない」と颯太は続けた。 「その人、話せなくて死んだんだろ」
「うん」
「でも麻衣は今、話した」
部屋が静かになった。風が止んだ。
麻衣は自分が今やったことの意味を、その瞬間初めて理解した。 話した。言葉にした。言葉にしたら小さくなると思っていた。 でも——小さくならなかった。 むしろ何かが、空気に触れて、広がった気がした。
「颯太」と麻衣は言った。
「うん」
「ありがとう」
颯太は照れたように視線を外した。 「チョコ、食べる?」
「食べる」
その夜、颯太が眠った後、麻衣は一人で起きていた。
話した、と思った。
ネフェルウは話さなかった。言葉が足りないと言って、沈黙を選んで、死んだ。 マドレーヌは女たちの顔を見なかった。帳簿の数字だけを見て、それで足りると思っていた。
でも今夜、麻衣は話した。 うまく話せたかどうかは、わからない。 言葉にした途端に小さくなった部分もあったかもしれない。 でも颯太は聞いた。 聞いて、受け取った。 それだけで、十分だった。
鞄の中から名刺を出した。Choisir.
選ぶ。
話すことを、選んだ。 それが最初の一歩だったのかもしれない。
麻衣は名刺をテーブルの上に置いた。伏せずに、表を上にして。
窓の外に、東京の夜が広がっていた。 光の多い夜だった。 星は見えない。 でもその光の向こうに、星があることを、麻衣は知っていた。
知っていた。
今度は、知っていることを——少しずつ、話していく。