← ケメト 目次

第八章

話す

東京、現在

颯太が来たのは、十一月の土曜日だった。

前回より荷物が少なかった。 着替えと、文庫本と、麻衣が好きなチョコレートを一枚。 颯太はいつもそういうことを覚えている。 覚えていて、でも大げさにしない。 それが颯太という人間だった。

夕飯は麻衣が作った。 たいしたものではない。 豚汁と、ご飯と、卵焼き。 颯太は文句を言わない。 何を出しても「うまい」と言う。 嘘ではないと、麻衣は知っている。

食べながら、他愛ない話をした。 颯太の仕事のこと。麻衣の試験勉強のこと。 図書館が静かでいいこと。近所に良いパン屋があること。

話しながら、麻衣はずっと迷っていた。


食器を洗い終えて、二人で床に座った。 颯太がビールを開けた。 麻衣は白湯を飲んだ。 窓の外で風が鳴っていた。

「ねえ」と麻衣は言った。

「うん」

「変な話、していい」

颯太はビールを置いた。 麻衣の方を向いた。 「変な話ほど聞きたい」

麻衣は少し間を置いた。 どこから話せばいいか、わからなかった。 エジプトから話すべきか。パリから話すべきか。それとも図書館の男から話すべきか。

図書館の男から、にした。 一番最近のことだから。

「先月、図書館で変な人に会った」

話し始めると、止まらなかった。 サン・ジェルマン伯爵のこと。名刺のこと。Choisirという言葉のこと。 その名前を見た瞬間に背中で何かが動いたこと。 そしてパリの夢のこと。赤いカーテンの部屋のこと。帳簿のこと。 ロートレックとマティスのこと。 エジプトの塔のこと。百と七つの石段のこと。緑の大地と、ナイルの氾濫のこと。

颯太は一度も遮らなかった。

麻衣が話し終えると、しばらく沈黙があった。 風の音だけがあった。

「信じる?」と麻衣は聞いた。

颯太は少し考えた。 「信じるとか信じないとか、そういう話じゃない気がする」

「どういう話?」

「麻衣がそれを知っている、っていう話」

麻衣は颯太を見た。

「ネフェルウって名前の神官の話、したじゃない」と颯太は続けた。 「その人、話せなくて死んだんだろ」

「うん」

「でも麻衣は今、話した」

部屋が静かになった。風が止んだ。

麻衣は自分が今やったことの意味を、その瞬間初めて理解した。 話した。言葉にした。言葉にしたら小さくなると思っていた。 でも——小さくならなかった。 むしろ何かが、空気に触れて、広がった気がした。

「颯太」と麻衣は言った。

「うん」

「ありがとう」

颯太は照れたように視線を外した。 「チョコ、食べる?」

「食べる」


その夜、颯太が眠った後、麻衣は一人で起きていた。

話した、と思った。

ネフェルウは話さなかった。言葉が足りないと言って、沈黙を選んで、死んだ。 マドレーヌは女たちの顔を見なかった。帳簿の数字だけを見て、それで足りると思っていた。

でも今夜、麻衣は話した。 うまく話せたかどうかは、わからない。 言葉にした途端に小さくなった部分もあったかもしれない。 でも颯太は聞いた。 聞いて、受け取った。 それだけで、十分だった。

鞄の中から名刺を出した。Choisir.

選ぶ。

話すことを、選んだ。 それが最初の一歩だったのかもしれない。

麻衣は名刺をテーブルの上に置いた。伏せずに、表を上にして。

窓の外に、東京の夜が広がっていた。 光の多い夜だった。 星は見えない。 でもその光の向こうに、星があることを、麻衣は知っていた。

知っていた。

今度は、知っていることを——少しずつ、話していく。


↑ 目次に戻る